正倉院文書調査

昭和六十二年度の正倉院文書調査は、十月十九日より二十四日までの六日間、例年の如く正倉院事務所に出張し、同修理室において原本調査を行なった。本年度は、ここ数年来集中的に進めている『正倉院文書目録』編纂のための作業を行ない、当時校正中であった『正倉院文書目録』二 続修に関わる問題箇所の原本による確認を中心に、調査を実施した。なお、『正倉院文書目録』二は昭和六十三年三月刊行した。
○天平五年出雲国計会帳I断簡の現状と接続について
 天平五年出雲国計会帳の諸断簡は、正集第三十、続々修第三十五帙第五、同第六の各巻に散在し、そのいわゆるI断簡は、続々修第三十五帙第六巻に収められている。同断簡については、昨年『正倉院文書目録』一 正集の編纂にともなう原本による確認調査を行ない、その際、山口は、同断簡の現状と接続について以下の所見を得た。なお本年の調査中にも、特に問題のある箇所について改めてこれを確認している。これらの点はいずれ『正倉院文書目録』に記載する事柄であり、ことにその現状に関しては、昭和六十一年度刊行の『正倉院文書目録』一に記述済みといってよい(五一六頁、正集三十�の項)。ただ、この記述のみでは同断簡の現状の理解になお若干の混乱を残す怖れなしとせず、また『正倉院文書目録』の刊行が同断簡を含む続々修第三十五帙第六巻の部分に至るにはなお多少の時日を要するのである。こうした点に鑑み、同断簡の現状に関する補足説明という意味を込めて、ここに敢えて若干の報告を試みる次第である。なお、断簡の番号、料紙の順、『大日本古文書』所収箇所等は、『正倉院文書目録』凡例に準拠して表示する。
 さて、出雲国計会帳I断簡については、透過光写真に基づく観察から、
  (a) 右端一行分は二行目以降とは別紙、別断簡である。
  (b) この一行分の断簡は、残画の状況から見て、J断簡の左端に接合する。
  (c) 二行目以降のI断簡の左端は、国印の状態から見て、J断簡右端とは直接接続し得ない。
とする見解が提出されている(平川南「出雲国計会帳・解部の復原」八〜一三頁、『国立歴史民俗博物館研究報告』三、一九八四)。今回の確認調査では、これらの指摘を原本に実際に当たって検討してみた。
 続々修第三十五帙第六巻は、反故紙を貼り継いで作製された写経所帳簿の原状をかなりよく伝え、その現表(オモテ)面の内容は、紙継目・行詰め・余白の有無など現状と異なるところはあるが、「経師等写疏紙筆墨充帳」(九ノ一三—五〇)として『大日本古文書』に全文が収められている。出雲国計会帳I断簡は、この続々修三十五ノ六の紙背に存し、紙背の側から見て、出雲国計会帳I(続々修三十五ノ六�(6)裏、一ノ六〇四8—11、一紙)→豊後国戸籍C(同�(5)裏、一ノ二一七—二一八、一紙)→出雲国計会帳J(同�(4)裏、一ノ六〇五2—6、一紙)の順に貼り継がれている。これを二次利用した現表面の当該部分(同�(4)(5)(6)、(オモテ)九ノ一四5—一五5)は、その前後の断簡を含め、帳簿として接続しているものと判断される。
 まず(a)については、続々修三十五ノ六�(6)(裏はI断簡)が明らかに全体として一紙からなっていることを、原本によって確認した。よって、(a)の観察は誤解と言わねばならない。同�(6)裏(I断簡)右端継目のすぐ右には、更に同�(7)の第1紙と第2紙の継目が存し、このように接近して二つの継目があるため、この付近の料紙は細かく折れ、歪み、皺に成りやすい状況となっている。透過光写真には、紙面のこうした細かいすじが写っているものと思われる。なお、同�(6)裏(I断簡)右端の継目は、右側に継がれる紙が上、左側に継がれる紙が下になる通常の貼り継ぎ方となっている。一方、左端の継目は、右側を下、左側を上とするいわゆる逆継ぎとなっており、このため同断簡左端の一行が継目下に隠れてしまっているが、この下に、『大日本古文書』が示す通り「六月」の文字が存することも改めて確認した。
 次に(b)の点であるが、I断簡が一紙となると、問題はJ断簡・I断簡がこの順に接続するかどうかということになろう。そこで国印の状態を確かめると、同�(6)裏(I断簡)右端は、前にも述べた如く紙継目の下に隠れているため、その部分の国印を見ることはできない。但し、同断簡は一紙であるから、継目下の国印の様子を継目の外にはみ出た部分から類推することが可能である。この方法によれば、同断簡右端の国印はぎりぎり断簡内に収まるか、わずかに切断される程度の残存状態と判ぜられる。他方、同2(4)裏(J断簡)左端には、ほぼ半分ほど切断された国印が残っているのである。この点から見て、J→Iの順の接続は成立し得ない。(b)の指摘は、I断簡を二紙と解したために生じたものであろう。なお、残画の状況を詳しく検討すると、同2(6)裏(I断簡)右端一行目の「上」字に対応すべき墨付が同2(4)裏(J断簡)左端にないことなど、接続の不成立を証するものである。
 (c)について、まず国印の状態は、同�(6)裏(I断簡)左端、同2(4)裏(J断簡)右端とも同2(5)裏との継目の下に隠されているため、判然としない。ただ、この二つの継目の幅を考えると、国印の状態だけではI→Jの順の接続を否定し得ないものと思われる。出雲国計会帳がI→Jの順に続いていくことは、先学の指摘にもあるところであり(早川庄八「天平六年出雲国計会帳の研究」、坂本太郎博士還暦記念会『日本古代史論集』下、一九六二。平川前掲論文)、問題はこの間に欠失部分があるかどうかということになろう。
 ところで、この同�(4)(5)(6)の部分には、右にも述べた通り逆継ぎの紙継目が存在している。これを現表(オモテ)面の写経所帳簿の側から見ると、同�(4)と同�(6)の紙面を隠すことのないよう、同�(5)がその間に貼り込まれた状況を示す如くである。また同�(5)は、右端に同�(4)から続く穂積三立の項の記載が二行あるだけで、あとは空白となっている。同�(6)においては、右端ぎりぎりから茨田兄万呂の項が書き始められているにも関わらず、この墨付きは同�(5)にまたがっていない。その上、同�(6)右端一行目の文字のいくつかは、紙端にかかってほんの僅かながら切断されているように見える。こうした点から推測すると、同�(4)・同�(6)はかつて連続した一紙として写経所帳簿に利用され、その前半は穂積三立の欄に、後半は茨田兄万呂の欄に用いられていたが、ある時期に三立の欄が足りなくなったため、兄万呂の欄との間を一旦切り離して新しい料紙(同�(5))を継ぎ足すこととなり、その際既に書き込まれている記載を隠すことのないような継ぎ方をした、という事情が考えられる。
 そして、この推測を証する如く、同�(6)右端初行「白紙廿張」の「張」字右下のはらいに対応する墨点が同�(4)左端に存在し、両者はうまく接合するのである。また、紙端の切断の具合、出雲国計会帳面の横界線なども両断簡ほぼ合致し、この接続を否定しない。更に、同�(4)裏(J断簡)三行目「七月」の下方には「十六日黄□□〔紙廿〕張」なる左文宇が読み取れ、これは、写経所で墨の乾かぬ内に帳簿を巻いたため、同�(6)・同�(7)にまたがる兄万呂の項の五行目「十六日黄紙廿帳」の文字が帳簿裏面にうつってしまったものと判ぜられる。墨移りした位置から見て、この文字の書かれた時点で同�(4)・同�(6)両断簡の間に同�(5)は貼り込まれていなかったものと考えられる。両断簡が当初接続していたことはここにも明らかとなる。
 こうして、同�(4)の左に同�(6)がツキ合セで接続し、両断簡は二次利用時のある時点まで一紙であったことが判明する。これを一次文書である出雲国計会帳の側から言えば、I断簡(同�(6)裏)・J断簡(同�(4)裏)はこの順にツキ合セで接続し、両断簡は本来一紙であったということになる。結局、(c)の指摘とは異なって両断簡の間に欠失はないとの結論を得る。
 さて、I断簡に関する今回の報告で述べるべき点は以上である。ここに、同断簡が一紙からなること、及びその左にJ断簡が接続(ツキ合セ)することを確認し、合わせて写経所帳簿における料紙の使用法の一端を推定し得た。なお、今回の報告では、透過光写真に基づく観察の一部について再検証を行なったが、透過光写真による残画等の確認が多くの場合接続を確定する決め手となり得ていることは言うまでもない。何よりも、透過光写真によって、通常の写真では見ることのできなかった継目下の状態が学界共有の資料となり、文字の存在や断簡の接続を多くの人々が実際に確認できるようになることの意義は大きい。この点で、今回の報告が透過光写真による正倉院文書研究の価値を毫も減ずるものでないことを、最後に付言しておきたい。
        (皆川完一・岡田隆夫・石上英一・石井正敏・加藤友康・山口英男)

『東京大学史料編纂所報』第23号